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被災地を巡る家族旅行 その4  第914号ー「東日本大震災」の被災地はもう一つの世界文化遺産になりうるか!?ー [E3 四季の旅行]

◆リード:恒例の夏休み家族旅行。今年は、211.3.11東日本大震災を受けての、東北(岩手・宮城等)の被災地巡りに決めた。百聞は一見にしかずで、我が子に被災地を目で見て体験してほしっかったからだ。その4は、石巻市~そして……。

2012.8.18 被災地を巡る家族旅行 その4  第914号

ー「東日本大震災」の被災地はもう一つの世界文化遺産になりうるか!?ー

近況
 前々記事で、私は、月刊『致知』2012年3月号のインタビュー記事②
南三陸ホテル観洋女将 阿部憲子「百歩でも二百歩でも前へ! 南三陸町を守り続けた女将の奮闘記」(40ページから44ページ)を読んで、南三陸ホテル観洋に宿泊し、「震災を風化させないための語り部バス」ツアーに参加することに決めたと書いた。

 そのインタビュー記事の最後の最後に、阿部さんは次のように書いていた。

阿部「一睡もしないで迎えた三月十二日の朝、前日が嘘のように静まりかえった太平洋の向こうから、何事もなかったようにいつもどおり朝日が昇ってくるのをホテルのラウンジから見ていました。それは残酷だと思うくらい美しかった。私はこの日の朝日を忘れないために、その光景を南三陸町出身の画家に描いていただきホテルの入り口に飾っています。私たちはこの出来事を風化させてはならないし、語り継ぐ使命があります。
 同時に、この太陽のように何があっても、また立ち上がらなければなりません。この町の多くは代々の暖簾を守って商売してきましたが、今度は私たちが新しく南三陸町を創業するんだと。そして後世の人たちに、あの大震災があったからこんなすばらしい南三陸町になったと思ってもらえる町にするために歩み続けていきたいと思っています
。」(同誌44ページより引用)

 このインタビュー記事を、私は出発前日に実母も含めて、家族全員に読み聞かせておいた。
 そして、8月14日に南三陸ホテル観洋に宿泊した翌朝、南三陸ホテル海洋「震災を風化させないための語り部バス」ツアーに参加した後、私と妻、アキコ、クニコは、玄関前に飾られていた、南三陸町出身の画家が描いた<朝日の昇る風景>をバックに写真を撮った。宿泊者を見送っていた女将の阿部慶子さんもいっしょに。


コピー ~ IMG_0502.JPG 

【石巻市へ】

 さて、ホテルの入り口で記念写真を撮った後、私たち家族4人は、すぐに石巻市へ向かった。
 目指すは、木ノ屋石巻水産などであった。
 私たち家族は、三陸海産再生プロジェクトに参加している。(このプロジェクトについては、「三陸海産再生プロジェクト」HPを参照してほしい。)
 そのプロジェクトの代表理事が木ノ屋石巻水産副社長の木村隆之氏で、「希望の缶詰」の話をはじめ、「にんげんクラブ」という会報誌の連載を読み、是非ともその木ノ屋石巻
水産や<三陸海産再生プロジェクト本部事務局>などを訪問してみたいと考えていたからだ。<そこで鯨の缶詰などを買えば、復興の助けにもなるし、よいおみやげになる>と、考えていたのだ。(鯨の大和煮の缶詰を子どもの頃、よく食べませんでしたか?)

 合わせて、2008年に訪れていた「石ノ森萬画館」や、食事をした「蛇の目寿司」なども見てみたいと考えたからだ。

  
【木ノ屋石巻水産の現状】

 「新工場2013年春オープン」とHPにあったので、ずいぶん建築が進んでいると思いきや、木ノ屋石巻水産は、壊れたままであった。この周辺の津波による被害も、すさまじかった。


IMG_2447木の屋.JPG

 事務局は、近くの別のところにあるという看板があったので、そこへ行ってみた。
 ところが、8月15日はお盆で休み。結局、話を聞くことも、缶詰などのおみやげを買うこともできなかった。そして、セブンイレブンのおにぎりと鯨の缶詰を昼食にする予定であったのに。しかたがないので、写真だけ撮り、缶詰をHPで買うことにして、石巻市をあとにした。

IMG_2448石巻水産.JPG

 途中で「石ノ森萬画館」を車窓から見た。まだ、再開はできていなかった。

IMG_2444.JPG

 蛇の目寿司は、電話で問い合わせたら、店の位置を少し変え、少し高い場所に引っ越していた。

 途中、妻が気づいたように、石巻市立大川小学校に行くのはどうかと提案してきた。
 石巻市は広く、ナビで調べたところ、遠く離れた所であった。
 迷ったが、この日の宿泊予定が山形県天童市でもあり、大川小学校へ行くことは断念した。
 そして、松島への道路が渋滞となっていたので、松島はやめて、仙台市にすぐに向かった。仙台市で定禅寺通りなどを見た後、山形高速道路を経て天童市へ向かった。


【震災を伝える施設等の計画的な保全を!】

 以上、ブログ記事4回にわたって、東日本大震災の被災地を巡る家族旅行について書いてきた。

 ふりかえってみて思うことは、これだけの震災を受けていながら、震災を伝える施設等を計画的に保全しようという発想も、ビジョンも、リーダーも、国レベルはもちろん、都道府県レベルでも見られないことの不思議さである。(<いや違う。そうした動きはある!>というのだったら、この記事にコメントしてください。)

 おそらくは、被災者の捜索、瓦礫の処理、仮設住宅の建設、復興計画の立案と実行などに追いまくられ、それどころではなかったのだろう。南三陸ホテル観洋でも、去年の7月までは被災者が泊まっていて、その方たちが仮設住宅に移動し終わった8月から一般の方を泊めるようになったという話であった。

 南三陸ホテル観洋の女将、阿部憲子さんは、インタビュー記事の中で

「~私たちはこの出来事を風化させてはならないし、語り継ぐ使命があります。」

と書いていた。
 
 陸前高田市でも、「国営メモリアル公園を高田松原へー国営防災メモリアル公園を陸前高田市に誘致する会ー」という横断幕が掲げてあった。

IMG_2415.JPG

 私もこれらの意見に共感する。そして、しっかりと語り継ぐための、環境整備を計画的にすべきだと考える。

 しかし、全体的には(草の根レベルでは強くあったとしても)復興で手いっぱいで、気持ちのゆとりも、金銭的な余裕もないようだ。(この陸前高田市ですら、<奇跡の一本松>を残すための費用を募金という形で調達しようとしている。)

 それではいけないのではないか。はたと気づいたら、震災を伝えるモノはきれいに片づき、原爆ドームや広島平和記念資料館なしの広島のようになってしまっていた。これでは遅いのだ。
 震災のすさまじさを伝え、備えることの大切さ・人間のおろかさ・被災の中にあってがんばり抜いた人たち・命あることの大切さ・助け合う人と人との絆の尊さ等々を教えるには、それを象徴する建物や道具、土地、人の話(エピソード)などが不可欠である。

 現在、あちこちで見られる<スクラップされる余裕すらない壊れた自動車の山>だって、震災を伝える象徴物の一つになりうる。そのような山が百あったとしたら、一つぐらいは残した方がよいのではないか。

IMG_2439.JPG

 とりあえずこうしたことの重要性を認識した個人が集まり、市町村に働きかけ、さらに都道府県に働きかける。最終的には国レベルで、ビジョンを創り、やっていくべき価値ある仕事だと考える。

 仮設住宅が建設され、ある程度の落ち着きをみた今、震災を伝えるモノがあちこちで壊され始めている今こそ、そのタイミングではないかと考えるがどうだろうか。

DSCF4008.JPG

この9月に解体が予定されている防災庁舎

 組織を立ち上げ、きちんと予算と人手をかけて詰めていけば、広島県の世界文化遺産である原爆ドームや広島平和記念資料館に匹敵するような、<震災のすさまじさを伝え、備えることの大切さ・人間のおろかさ・被災の中にあってがんばり抜いた人たち・命あることの大切さ・助け合う人と人との絆の尊さ>等々を学べるものがきっとできる思う。


◆キーワード:1 東日本大震災  2 家族旅行  3 石巻市

◆留意点・その他:

・岩手・宮城・福島の各県で、残すべき施設、場所など100程度。エピソードなど300程度。とりあえず集める。そのうえで、さらに詰めていけばよいと考える。
 それには、そのためのリーダー、組織を立ち上げる必要がある。

・今回の2泊3日の家族旅行。初日は自宅から南三陸ホテル観洋までが自家用車で約500km。2日目は約200km。3日目は約250kmで、合計900kmを超える旅であった。

【追加記事「釜石の奇跡は、かくて起こった」に学ぶ】
月刊『致知』2011年8月号に、群馬大学大学院教授 片田敏孝氏による『釜石の奇跡は、かくて起こった』という文章がある。
 リードには、次のように書いてある。
平時に備えるリーダーこそ危機を越える  二万人以上の死者・行方不明者を出した東日本大震災。しかし、岩手県釜石市立の十四の小・中学校全校では、学校管理下になかった五人を除く児童・生徒約三千人が全員無事だったー。『釜石の奇跡』といわれるこの出来事はいかしにして起こったのか。長年、同市の防災教育に携わってきた片田敏孝氏に、危機に強いリーダーの条件とその役割について伺った。」(同誌30ページより引用)

 すごいことに、釜石市立の14の小・中学校全校では、児童・生徒約三千人が全員無事だった!
 これは、片田氏が2004年から携わってきた学校での防災教育によるものだという。
 片田氏は、避難三原則として次の三つを教えたという。

「一つ目は、『想定にとらわれるな』。端的に言えば、ハザードマップ(防災予測図)を信じるなということである。~災害時に非常に多いのは、マップの想定に基づいた行動を取って亡くなるケースである。 そこで私(片田氏)は子どもたちに『ハザードマップはあくまで想定にしかすぎない。相手は自然なのだから、どんな想定外のことも起こり得る。先生が大丈夫と言ったから安全だ、といった受け身の姿勢でいては絶対にダメだ』と伝えた。」(同誌32ページより)

「二つ目は、『その状況下において最善を尽くせ』。」(同誌32ページより)

「三原則の最後は『率先避難者たれ』。~『人間はいざという時に、逃げるという決断がなかなかできないものだ。例えば、非常ベルが鳴った時に逃げ出す先生を見たことがあるか。ベルの意味合いは分かっていても、「ええ、本当に?」と、誰もその情報をすぶには受け入れようとはしない。 皆が疑心暗鬼になってはいるが、いまがその時だとは思えずに、周りをキョロキョロ見ている。”初着情報の無視”とも言うべきこの人間の習性を打ち砕くには、同じことを意味する二つ目の情報を与えなくてはいけない。 だから君が逃げるんだ。君が率先避難者になれ。その状況を打ち砕くのは君なんだ』 すると生徒の表情が少し変わる。「でも想像してみてほしい。非常ベルが鳴った時、最初に部屋を飛び出していくには非常な勇気がいる。なんだか弱虫でおっちょこちょいのようだし、大抵は誤報で、皆から囃し立てられながら再びここへ戻ってのなくてはならない。 けれども、実際に災害が起こると、そういう状況の中で大勢の人が亡くなっていく。君自身が逃げるという決断をすることで皆を救うことができるんだ」」
「今回の津波でも、大声を出しながら全力で駆け出した中学生たちが児童を巻き込み、大挙避難する彼らの姿を見て、住民の多くも避難を始めた。子供たちは文字どおり率先避難者となり、周りの大人たちの命をも救ったのである。」(
同誌32ページから33ページより引用)

 ここに教育の偉大さを、私は見る。(学校での防災教育は、年間五時間から十数時間行ったという。)
 このような防災教育が、釜石市にとどまらず、被災した岩手、宮城、福島の全範囲で行われていれば、今回の東日本大震災の人的被害は大きく減少したに違いない。

 片田氏は、最後に次のような話をしている。
~東北地方には、”津波てんでんこ”という言い伝えがある。津波がきたら、てんでばらばらに逃げないと家族や地域が全滅してしまうという教訓だ。~おそらくこの言葉には、津波襲来のたびに、家族の絆がかえって一家の滅亡を導くという不幸な結果がくり返されてきたことが背景にある。その苦渋に満ちた思いとともに我々の先人が残してくれたのが、”津波てんでんこ”という言葉ではないか。 その意味するところは、老いも若きも、一人ひとり自分の命に責任を持てということ。そしていま一つの意味は、家族同士がお互いに信じ合っていることが大事だということではないだろうか。 子供は、お母さんは必ず後からちゃんと迎えに来てくれると、お母さんを信頼して逃げる。一方、お母さんは、子供を迎えに行きたいが、我が子は絶対逃げてくれているという信頼のもと、勇気を持って逃げる。これは家族がお互いに信用し合っていなければできない。”津波てんでんこ”とは、自分の命に責任を持つということだけではなく、それを家族が信じ合っている。そんな家族を信じておけ、という意味ではないだろうか」(同誌34ページより引用)

 東海大地震も予想される中、読者にとっても有益だと考えたので紹介した。


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ももん

”津波てんでんこ”・・・いずれ子供が成長したら
私もこの言葉を伝えたいと思いました。

by ももん (2012-08-20 00:45) 

ファーザー

>ももんさんへ
コメントありがとうございます。
参考になったようで何よりです。

わが子は大きいので、既に伝えています。”津波てんでんこ”もそうですが、「率先避難者たれ」を強調しました。自然相手では、様子見は通用しないこと。弱虫でおっちょこちょいと見られても、命を守るために、勇気を出して率先避難者になれ!それが自分ばかりでなく周りの人も救うことになると真剣に話しておきました。わが子はうなずきながら、聞いていました。
by ファーザー (2012-08-20 18:04) 

南三陸ホテル観洋 総務課 齋藤

この度は当館をご利用いただき、またブログに掲載していただき誠にありがとうございます。
本日、私どもホテルのブログに掲載するにあたり、ファーザー様のブログ記事を読ませていただきました。

私個人の感想ではありますが、とても共感した部分や考えなくてはならない部分などたくさんありました。
中でも最後の月刊「致知」の片田様の文章です。
「津波てんでんこ」という言葉は、正直私は存知あげてませんでした。でも、家族が互いに信頼し合うと部分にとても震災当時の自分に重なりました。
震災当時、私はホテルにいました。家族ももちろん職場・家にいました。地震・避難誘導・津波に追われ、自分に置かれた状況を把握するのにいっぱいいっぱいでした。電気もなく携帯も繋がらない状況に気付き、夜一気に不安がこみ上げました。
母の職場は、おさかな通りにあったヤマウチに勤めていましたし、妹は学校が休みで家にいました。
沿岸から避難場所である高台までは、車はさほど遠くはなかったんですが、建物が崩れてしまったのではないか、津波にのまれたのではないか、妹は無事逃げたたろうかとマイナスなことしか考えられなかったが、「きっと大丈夫!!」と心の中で願っていました。
家族と連絡が取れたのは、約一週間ほど経ってからでした。
携帯の電波は4・5日ほどで復活したものの、電気がなく充電が切れてしまい、一週間が経っていました。
初めて声が聞けたとき、思わず泣いてしまいました。
「無事でよかった」の一言でしかなかったです。
あとから聞いた話だと、二人は私が死んだと思っていたそうで、思わず笑ってしまいました。

長々と話してしまい申し訳ございません。
記事を読んだら思わず書きたくなってしまいました。

今後とも何卒よろしくお願い致します。
by 南三陸ホテル観洋 総務課 齋藤 (2012-08-26 12:01) 

ファーザー

> 南三陸ホテル観洋 総務課 齋藤 様へ
コメントありがとうございました。

実体験の話は、やっぱり胸にひびきます。ホテルにいたときも、思ったのですが、ホテル内にも、震災を伝えるコーナーをつくり、今のようなエピソードを含めて、被災時の様子や、昨年7月までこのホテルが避難所になっていたことなどを伝えた方がよいと思います。なぜなら、ホテルに泊まった人がすべて語り部バスに乗るわけではないでしょうから。縁あってこのホテルに泊まった人にも、伝えていきべきでは亡いでしょうか。

ところで、東北地方に伝わるという「津波てんでんこ」を知らなかったそうですね。私も、「致知」という雑誌を読むまでは知りませんでした。こういうことをやっぱり伝えていくべきだと思うのです。今から50年あまり前のチリ大地震による津波の被害、あるいは、それ以前の大津波による被害も、十分に伝えてこなかったから、今回の甚大な被害につながったように思うからです。
 新聞記事で読んだのですが、地域によっては「ここまで津波が来た。これより低いところには家を建てないように!」というような津波が来た位置と戒めを示す石碑が建っていたところがあったようです。その石碑のある地域は、ずいぶん津波の被害を免れたとか。
 今回の津波による被災のすさまじさ、教訓を伝えるべきは、今後も津波の襲来が予想され、まさに直接体験したこの東北三陸地方の人たちだと思います。はじめは、そのような体験をしたことのない、東北三陸地方以外の人に知ってもらうことに意味があると考えました。それ以上に、やがて風化していく中で、子孫がこの被災を教訓として忘れないためにこそ、まず「広島県の世界文化遺産である原爆ドームや広島平和記念資料館に匹敵するような」被災施設を残し、資料館を作るべきではないかと思います。東北地方に伝わるという「津波てんでんこ」を知らないという言葉からも、そのように思いました。
by ファーザー (2012-08-27 04:27) 

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