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被災地を巡る家族旅行 その1  第911号ー陸前高田市「奇跡の一本松」他ー [E3 四季の旅行]

◆リード:恒例の夏休み家族旅行。今年は、211.3.11東日本大震災を受けての、東北(岩手・宮城等)の被災地巡りに決めた。百聞は一見にしかずで、我が子に被災地を目で見て体験してほしっかったからだ。その1は、陸前高田市「奇跡の一本松他」編である。

2012.8.14 被災地を巡る家族旅行 その1  第911号

ー陸前高田市「奇跡の一本松」他ー

近況:恒例の夏休み家族旅行。今年は、211.3.11東日本大震災を受けての、東北(岩手・宮城等)の被災地巡りに1月の段階で決めていた。
 2000年、2008年の二度にわたって、東北一周家族旅行をしたわが家にとって、震災後の東北の様子は、家族みんなの関心事でもあった。あの美しい海岸ー浄土ヶ浜ー、宿泊した<気仙沼ホテル海洋>、石巻市にあった石ノ森萬画館、蛇の目寿司…は、どうなったのだろうと……。
 もちろん、わが家は、何とかできることで支援したいと考え、三陸海産再生プロジェクトに参加し、会員となって、三陸海産の「生炊き小女子佃煮」、「塩蔵金華ワカメ」、「ボイルシャコエビ」を購入してきた。(購入することが三陸で水産業を営む人びとを助けることになる。)

【世界文化遺産「中尊寺金色堂」~から、陸前高田市へ】

 さて、8月14日朝5時ちょうどに自宅を車で出発し、東北自動車道一関インターチェンジを下り、10時20分に中尊寺の駐車場に着いた。
 そこから、世界文化遺産の中尊寺金色堂などを見た後、毛越寺へ行き、そこで昼食を食べた。さらに、厳美渓を見た。
 これらのコースは2000年にアキコを連れて巡ったコースで、当時生まれていないクニコには見せていなかったので、世界文化遺産でもあり、クニコにも見せることにしたのだ。

 午後2時過ぎ、厳美渓から陸前高田市へ向かった。
 陸前高田市と言えば「奇跡の一本松」で有名なほど、被害が大きかったところである。
 震災後1週間ほどした頃、陸前高田市の被災者自身の手で、

「ガンバロー高田 命あることを喜ぼう」

という横断幕を書き上げ、掲示するテレビ映像が放映されていた。
 私は、その後の様子を知りたいと思っていた。


【仮設住宅、がれきの山、土台だけ残っていた住宅跡……】

 山越えして陸前高田市に入ると、高台に仮設住宅が見えてきた。すぐに建設できるプレハブ住宅なので、仮設住宅だとよくわかる。

 海岸近くに行くと、見事なぐらい住宅の類は何もなかった。時折がれきの山があった。よく見ると、あちこちに住宅のコンクリート土台だけが残っていた。
 さびた自動車が山積みになって置かれていた。
 
 残っていたのは、大きなビルなどの建物のみで、それも鉄筋がむき出しになっていた。
 車を止めて、家族皆で見入った。妻もアキコもクニコも、あまりのすさまじさに言葉もないくらいであった。わが家族だけではなく、何台も同じような車があり、関東方面から来た車のナンバーもあった。

 しばし歩くと、むき出しになっていたあるビルの下に祭壇があり、多くの花や折り鶴が置かれていた。ビルの奥には、未だに壊れた自動車が見えた。

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 祭壇では、線香が焚かれており、言葉に表しずらいただならぬ雰囲気があった。
 写真すら撮ることがはばかられるような感じであったが、勇気を出して撮った。

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 だが、それをバックにして家族の写真を撮ることはできなかった。その場の雰囲気がそれを許さなかった。
 

【地元被災地の人の証言1】

 たまたまその場に、犬を連れて散歩していた50ないし60代の男性がいた。

私「(鉄骨だけ残ったビルを見ると、津波は)すさまじかったんでしょうね。」

男性「すぐ向こうに市役所と体育館が見えるだろ。津波が来たら、その体育館に避難することになっていたんだ。ところがそこは、海抜2mのところだ。100名、200名と避難していたんだけど、みんな(ほとんど?)亡くなったよ。」

私「海抜2mのところが避難所じゃあ、ちょっと避難する意味がないんじゃないでしょうか。」

男性「意味がないどころか、馬鹿なんだ。」(ファーザー自身の記憶によるので<馬鹿>という言葉ではなかったかもしれないが、<とんでもない間違いだ>という意味のことを言った。)

男性「私は、自宅が海抜15mのところにあったけど、もっと高い20(30)m以上の避難所に避難したよ。そしたら、(はじめは)俺一人なんだ。きっと大勢亡くなるんじゃないかと思ったら、このとおりだ。」……

 私は、この話を妻とアキコ、クニコに伝えた。そして、

「政府や役所(お上)の言うだから(絶対)正しいなんていうのは、ウソなんだ! (鵜呑みにしないで)自分たちで正しく判断しないとダメなんだよ。」

「みんながここに避難しているから大丈夫というのも、間違いなんだよ! 自分たちで正しく判断しないとダメなんだよ。」(100人、200人と役所の言われるままに、海抜2mの体育館に避難していた。)

こう言った。このことだけでも、被災地を見学した価値があった。


【地元被災地の人の証言2】

 ビルの残骸やがれきの山が時折姿を見せる、平坦な広い土地の中を車で運転しながら、奇跡の一本松へ向かった。

 途中で、地元の40後半ないし50代の男性に<奇跡の一本松>の場所を聞いた。親切に教えてくれたのだが、合わせて、さっきの男性の言ったことが本当かどうか確かめてみた。

私「向こうの体育館に、100人、200人と避難していて、ほとんど亡くなったとか。」

男性「そうなんだ。僕の母親もそこに避難して亡くなったんだ。」

私「海抜2mぐらいのところで、<なんであんなところを避難場所にしてたんだ。馬鹿みたい>って、さっき地元の人が言ってましたけど。」

男性「みんなそう思ってる。(ちょっと前の)チリ地震のときは、僕もそこに避難したんだ。」……

 やっぱり先ほどの男性の話は本当だったのだ。

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 しかし、冷静になって考えてみると、すべての人が自分で冷静に(科学的根拠をもって)考えるなど無理だ。それだけの知識もない。大方の人にとって、お上のことを信じるしかないではないか。
 
 そう考えると、お上(政府、役所…教員も)など上に立つ人は、本当に冷静で、きちんとした根拠のある、正しい判断が求められると言える。みながその判断を信じて従っていくわけだから。


【奇跡の一本松を見る】

 市役所から、車で5分あまりの場所の海岸沿いに、奇跡の一本松はあった。


 やまほどある空き地を駐車場にして、関西方面を含め、全国各地の車のナンバーがあった。わが家もそこに車を止め、がれきの山の間を歩いて通り抜け、奇跡の一本松に向かった。

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 ※ 奇跡の一本松に向かう人びと、

※ 手前の白い服を着た女の子はクニコである。

 奇跡の一本松。がれきの山、鉄骨だけが残ったビル。スクラップされる余裕もなく山積みされた自動車。コンクリートの土台だけ残った家屋。祭壇と折り鶴。線香の煙、地元の人の話……。

 これらを経て、目の当たりにした奇跡の一本松。ああ、これがこれだけの破壊力のあった大津波をもってしても、生き残ったまさに<奇跡の一本松>かと思った。

 そこへ至る橋には、「国営メモリアル公園を高田松原へー国営防災メモリアル公園を陸前高田市に誘致する会ー」という横断幕が掲げてあった。

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 この横断幕のように、国の手で、この悲惨極まる大震災を忘れずに後世に伝えるために、残してほしいと思った。

 それには、この<奇跡の一本松>ばかりではだめだ。この松が残ったことが奇跡だと共感するには、それまでに、がれきの山、鉄骨だけが残ったビル。スクラップされる余裕もなく山積みされた自動車。コンクリートの土台だけ残った家屋。祭壇と折り鶴。線香の煙、地元の人の話……などが必要だ。少なくとも、鉄骨だけが残ったビルのいくつかが絶対に必要だと思う。

 10年以上も経てば、原爆の落ちた広島が復興したように、今のような家の土台の残る空き地はきれいになっているだろう。がれきの山も、山積みされた自動車も、仮設住宅もなくなっているだろう。いくらビデオ映像があると言っても、目の前に物がなければ風化していくものだ。

 10年近く前、広島の原爆ドームと原爆資料館を訪問したことがある。
 原爆ドームを目の当たりにしたとき、「ああ、やっぱり本当に原爆はこの地に落とされたのだ!」と思えた。これが、本物のもつ力である。
 
 遺族の人たちの中では、あれを見ると、悲惨な過去を思い出すから…ということで、震災の爪痕の残る建物などを取り壊すことを望む人も多いと聞く。

 また、「記念に残す云々にも、お金が必要で、そんなことよりも、今困っている現地の人の復興予算が先だ」という政府や地方公共団体の方針もあるそうだ。この陸前高田市ですら、<奇跡の一本松>を残すための費用を募金という形で調達しようとしている。

 確かに復興予算が先なのかも知れない。しかし、同時に保存活動を、国や地方公共団体はしっかりとやってほしいと、私は思う。津波の恐ろしさを後世に伝え、海抜2mのところを避難場所に指定するというような失敗をくり返さないためにも。復興と同じぐらい価値があると考えるから。

 私は、「奇跡の一本松保存募金」に応じるつもりである。

※ 8月21日、私は「奇跡の一本松保存募金」に応じた。

◆キーワード:1 東日本大震災  2 家族旅行  3 陸前高田市

◆留意点・その他:

・「奇跡の一本松」には、大勢の人が全国から訪れていた。広島の原爆ドームのように、きちんと整えれば、観光資源にも十分になり得ると思う。
 それには、ものを壊してしまってはダメだ。

・【追記8/24】こう書いたにもかかわらず、2012年8月24日付けの読売新聞に、「亡き母への思いを記した壁を保存」という記事が載っていた。陸前高田の戸羽市長は「後世に事実を伝えるには、保存が有効だと思う」と話し、約220万円かけて、9月上旬に切り取り作業を行うと書いてあった。「9月中旬からは公民館も解体される予定」とも。
 公民館勤務中になくなった母親へのメッセージ「これからもみんなのこと 天国で見守っててね」を記した小松佳菜さん(24)(盛岡市)は、「壁だけでは、津波の恐ろしさは伝わらないと思う。約80人が亡くなった場所でもありる公民館を残してほしい」と訴えたともあった。
 私は、佳菜さんの言うとおりだと思う。美しい部分、光の部分だけを残しても、その美しさ、光の輝きは半分以下にしか伝わらない。醜さ、光の影の部分が存在して初めて美しさ、光は際だって見えるものだ。この辺りがわかっていないらしい。
 小松佳菜さんのいうように、公民館を合わせて残せば、南三陸町の防災庁舎と同じように、美しいエピソードともに、その教育的価値は高いものとなる。このことは、集客力が高まることを意味し、それはすなわち観光資源としての価値が高いということとイコールである。世界遺産の中尊寺金色堂や毛越寺を見て、そのまま関東地方に帰っていた人たちが、三陸海岸を周り、そこに一泊していくかの分かれ目がこの一点にある。
 10年近く前、出雲大社に参拝した帰りに、広島に立ち寄ったのも、原爆ドームを一目見たいと思ったからである。どこでも見られる震災のビデオ映像だけなら、わざわざその地に立ち寄る必要などないのである。教育的価値(=観光資源としての価値)を損なわないために、私は公民館を取り壊すのには、反対である。


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