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『母の生き方に学ぶ』 第781号ーアキコへのキャリア教育 その2- [K7 実父母]

◆リード:前号『祖母の人生から学ぶ』で紹介したように、私の実母(アキコの祖母)は、中学1年にして、将来編み物の先生になることに決めた。しかも、高校卒業後、編み物専門学校に通うという進路まで決めていた。なぜ母は、将来編み物の先生になることを決めたのだろうか?! もっと言えば、ある職業に就きたいという動機は、どのように育まれるのであろうか?!

2010.1.22 『母の生き方に学ぶ』 第781号

ーアキコへのキャリア教育 その2-

 恒例の土曜日午前中の、あーちゃん(実母)とアキコ(小6)、そして私の3人でのティータイムである。(※ 妻はクニコ(小2)を七田チャイルドアカデミーに連れて行っている。)

 今回は、前回に続いて、あーちゃんが中学1年生で、将来編み物の先生になることを決めたことについて、話を聞くことにした。


【和裁の先生だった母の母】

私「お母さんが生きているうちに、聞いておかないとね。」

母「お母さんが和裁の先生だったの。」

私「お母さんが和裁の先生だったんだ。オレ、初めて聞いたね。アキコ、『和裁(の先生)』って知ってるか。」

アキコ(?)

母「着物を作る先生のことだよ。昔はみんな着物しか着てないから。それに自分で作らないと、着る物がなかったんだね。昔は、今の西校に青年学級というのがあってね、そこへ母(の母)は、和裁を教えに行ってたの。」

私「ほう~、初めて聞いたぞ。」

母「昔は卒業して結婚するまでの間、みんな何か習い物をするわけ。そういう人たちが西校に集まって、和裁を習ってたんだよ。」

私「中学校を卒業して嫁に行くまでの人が来てたんだ。」

母「あの頃は、中学なんてないよ。小学校を卒業して嫁に行くまでの間、家で仕事をして、農閑期に約半年和裁を習いに来てたんだよ。母はそこへ農閑期の冬の間、約半年教えに行ってたの。私の母は器用だったんだよ。」

私「アキコ、農閑期って知ってるか。農作業がなくて時間にゆとりがあるときのことだよ。逆に農繁期は農作業で忙しい時期で、学校が休みだったりしたんだよ。」

母「貧乏な子は、学校へ行けなくて、家の手伝いをしていたんだよ。」


【母の服作ったを着て、先生からほめられるetc.】

母「うちの母は、私たちの毛糸の服はみんな編んでくれたし、和服も作ってくれたけど、人と同じ服は作らないの。かわいいのしか作らないの。 それで、私もそんな母に似てね、自分で染めて模様を作って服を作るとかさ、とにかく出来上がったのに刺繍するとか、ただの服は着せないんだよ。必ず何か一工夫するの。」

私・アキコ「ふーん。」

母「また手をかけるの。刺繍したりするの。毛糸の服だったら、ただの服じゃないんて。模様入れてみたり、描いたり…。それに、模様の入れ方も、ハイカラに入れてくれるの。」

私・アキコ「うーん。」(感心して聞いている。)

母「母の作ってくれた服を学校に着ていくと、先生がいつも『見せて』なんて言って、『お母さん器用なんだね~。』なんてほめてくれた。」

母「そういう家に育っているから、例えば座布団なんかでも、普通だったら、このカバー縫うだけなんだけど、私は絶対何か一工夫するんだよ。人ができないようなことを。」

私(そうだったのか。それで座布団とかいつもおしゃれにできているんだ。)「アキコにも、その血は流れているかも。アキコもそういうところあるよね、ほら、父の日に素敵なメッセージカードを作ってくれたけど、すごく凝ってたよね。ブルーのカバンのやつ。」

母「私ね、そういう母のもとで育ったから、服の袖の所に刺繍を入れるとか、自分で編んでるとき、一工夫してたよ。」

私「和裁の先生なんだけど、編み物もしたわけね。和服も作ってくれたんでしょう。」

母「和服なんて、私が結婚するときの服は、全部母が縫ってくれたよ。」

私「ほうっ、それはすごい。だって、和裁の先生なんだもんね。」

母「うちの母は、入学式なんていうと、袴はいて、きれいにしてて今でも覚えてるよ。昔ってみんな羽織袴だったからね。袴なんかわからないだろ。」

私「オレ、結婚式の時に着ただけ。ハハハハ……。」

母「入学式とかなんていうとさ、袴をはいていったもんだよ。」

私「そうなんだ。お母さんが和裁の先生だったから、そういう姿を見ていて、いいなっと思って、編み物の先生になろうと思ったんだね。」


【日本一の編み物の先生に習おうと思った母】

母「そうそう。そして、着物や編み物の本を母が取っていたから、本当に中央で活躍している先生方のことも、本で見てよく知っていた。」

私「あーだから、本に載ってるくらいだから、一流の人しか本に載らないわけだから。」

母「日本一の先生もわかったわけ。」

私・アキコ「ふーん。」(感心というか感嘆の声)

母「友達のAさんとかBさんにも、『よくあなた、編み物の先生のところ調べられたね。』と言われるんだよ。それで、『実はうちの母がこうでこうで…』と説明すると、『あーじゃ、お母さんも偉かったんだ』とか言われるんだ。確かに、あの頃婦人雑誌を取っている親なんか、近郷にいなかったんだよ。」

私・アキコ「ふーん。」

母「だから、やっぱりうちの母はすごかったんだよ。」

私「あーなるほど、婦人雑誌を取ってること自体が。」

母「もっとも、嫁に来たときシンガーミシンなんか持ってきたのは、近郷でさ、何人もいないんだよ。」

私「シンガーミシンって何?」

母「シンガーミシンというは、日本がアメリカから初めて輸入したミシンだよ。」

私「はあ。」

母「シンガーミシンなんか持っているのは、□地区にも何人もいなかったんだよ。」

私「ふーん。」

母「○市だって何人もいないし。日本で初めて輸入したミシン。」

私「アメリカから。」

母「あの時代、ミシンを持っている家は、ほとんどなかったけど、私の母はシンガーミシンをもらってきたんだよ。」

私「あー、嫁入り道具の一つとして。」

母「そう、結婚するとき。」

私「すごいね。」

母「だって、母の実家、豪農の出で、娘が二人しかいない。一人は婿取りだし、嫁にくれるのは一人だから、私の母なんか、たくさん嫁入り道具をもらってきたんだよ。」

私「はーん、それでシンガーミシンももらって来たわけか。それで服作ってくれたわけね。」

母「それで服も作られたし、何でもできたんだよ。」

私「本とお母さんの影響で、学校に服を着ていけば、『いいねー、この服』何て言われて。」

母「本当にその服もね、本当に可愛い物ばっかり作ってくれた。それはね、すごいと思った。」

私「なるほど、それで中学1年の時にはもう編み物の先生になるって言って…。」

母「それでもう習いに行き始めたの。中学1年でもう習いに行ったんだよ。」

私「中1でもう習いに行ったんだ。」

母「習いに行った。」

私「どこへ?」

母「学校の帰り、あの羽生田にあったの。羽生田にね、羽生田製作所というところがあったの。編み物の機械を作ってたんだわ。それで、編み物の機械を作るには、やっぱり教えねばならないから、教えてたんだわ。」

私「ああ、それが将来客になるわけだからね。ヤマハと同じだ。楽器作って売るだけじゃダメなんだ。ヤマハ音楽教室みたいに、将来楽器を買いたくなる弾く人を育てないとね。」

アキコ(うなずく)

私「中1から休み中に習いに行ってたんだよね。それっていつ習いに行ってたの。」

母「だから、春休みとか夏休みとか日曜日とか。教えてくれる人なんか、今みたいに土日なんかないもん。」

私「春休みとか夏休みとかね。」

母「日曜日とかさ。」

私「日曜日って、春休みでも夏休みでもない日曜日?」

母「うーん、どんな時でも教えてたよ。年中無休で教えてたよ。」

私「そこに習いに行くと月謝かかるの。」

母「そりゃかかるよ。」

私「習いに行ったわけね、中1から、もう。そっかー。そして、習いに行ってぐんぐん上達したでしょう。」

母「先生が三流の先生だから、そこで学んでも、てっぺん知れてるんだよ。それで先生は優秀じゃないとダメっということがわかったから、自分は絶対日本一の先生に習おうと思ったの。母がとっていた編み物の本に出てくる物なんか、教えられないんだよ。」

私「あーなるほど。」

母「考えてみれば、(当時の)私よりレベルが低いみたいなんだよ。専門の本を見ようなんていう意欲もなかったんだから。」

私「うーん、わかる。機械を売るために、やむを得ず教えるぐらいだとね。ほら、すごいじゃん、あーちゃん、絶対日本一の先生に習おうと思ったんだって。それも、中学生で思ったんだよ。」

アキコ(感心しつつ、笑っている。)

母「そうだよ。おかげで高校行ったらさ。…」続く(ここまで10分30秒)

 そんな実母が高校へ行ってどうなったか!?(次号へ続く)


【視野に入った憧れのモデル(職業)から選ばれる】

 母が一工夫して作った和服、編み物を着ていくと、先生からほめられる。おそらくは、友達からもうらやましがられたに違いない。和服の先生として教えに行く母の姿もまぶしかったに違いない。

 実母にとって、母のそうした姿は憧れの対象であったろう。かくて「自分もそうなりたい」と思うのは、ある意味自然なことであったろう。

 前号で書いたように、「嫁入り道具も何も要らないから、東京の編み物専門学校へ行くのを許して欲しい」(今で言えばアメリカ留学のようなもの)と親を説得するほどに、強い志をもてたのも、編み物の先生になることが、強い憧れの職業であったからであろう。

 春休みや夏休み、日曜日にも、編み物を習いに行った母。教わる一方で、「編み物教室」は、十分に職業として成り立つと考えていただろう。

 そして、当時母親がとっていた『主婦の友』や『婦人クラブ』の付録の編み物の本についても、よく読んでいた母。だから、本当に中央で活躍している、一流の先生方のことも、本で見てよく知っていた。しかも、自分が通っていた編み物教室のレベルまで計り、三流と内心断じていたのである。だから、東京の日本一の先生のところで学びたいという志まで立てていた。

 アキコが将来就きたい職業、小さいときはお菓子屋さんだった。きっとお菓子が好きだったからだろう。最近は、歌手・俳優。一番最近は、俳優のマネージャーだという。

 いずれにしても、アキコの視野に入った憧れの職業から選ばれることになるだろう。そして、それがとても強い憧れであった場合、少々の困難や親の反対すらもはね除けて、進むことになるだろう。私自身もそうであった。→卒業生に贈る言葉「志をもとう!」

 できるなら、アキコにぴったりの職業が選ばれるように、広い視野をもたせるように、リード(例えば、伝記を読ませる。良書を勧めるだけでもよい)できればと考えている。また、学力のせいで、なりたい職業に就けないということがないように、学力面もしっかりと身に付けさせたいと考えている。


 【関連記事】あったかい家族日記  「家族の広場」

『祖母の人生から学ぶ』 第780号

今年の子育て計画 第773号

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コメント 2

qooo

おばあさまのお母様も、素敵ですね〜!!!
アキコちゃんも、夢に向って、
素敵な人生を歩んで下さいね。

私も、今の職種に付いたのは、
母の影響が大きかったのですが、
その人を育てた母(つまり、祖母ですね)も、
編み物や洋裁が好きだったなと、突然思い出しました。
家族から受ける影響って、確かですね〜。

by qooo (2011-01-29 18:42) 

ファーザー

>qoooさんへ
私の祖母は、私が確か大学生の頃までは生きていたと思います。
生け花の先生というのは知っていましたが、和裁の先生でもあったことは知りませんでした。

アキコのキャリア教育のために始めた母の生き方に学ぶシリーズですが、私の母について知るよい機会となり、私の勉強にもなりました。
by ファーザー (2011-02-06 07:47) 

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